一生涯かけて実現したいことのために・・・自分らしくあるために何ができるかを日々見つける日記


by kevala
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日本橋三越への憧れ 隅田川を越えて

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舶来モノを馬車にのせて、はるばる横浜からやってくる あこがれの街
どんなに離れているのだろう 考えもしないほど遠くの国からやってきた髪飾り
着物を我慢して旦那にへそくりしてためた銭で あこがれ鏡をみにいくの

誘いあわせで約束の 下町奥様をつれて 手鏡もって化粧して私も西洋婦人かな
日本橋よ 日本橋 心のはずむ橋わたり 頬紅に色添えて私も粋な女かな

日本橋よ 日本橋 墨田の川こえやってきた 少し色恋してみたい

~日本橋三越に憧れた一江戸の婦人を描いた心模様~

女はいつの時代も舶来品が大好きなもの へそくりしてでも買いたいものが江戸の婦人にもあったのではないだろうかと想像する 横浜から東海道で馬ではこばれた西洋の箪笥などが有名であるが 箪笥などは貴族などしかかえなかっただろうから 小物でも欲しいわと憧れた婦人がいるのではないだろうか・・・浅草の夜市ではまがいものがあったのかもしれないが・・三越に憧れた当時の女性の気持ちを想像してみた

日本橋復活は、江戸の文化を再発見できることにつながり
それが日本人の精神世界復活もつながることだと感じている
日本橋は、日本が物品を通して西洋の文化を取り入れた象徴である
それが繁栄につながり今の日本があるが、その橋を否定することは必要ない
戦後に日本の文化を抑圧してきてもう60年余り 日本の新しいあり方をさぐるヒントに
日本橋復活を待ち望んでいる

日本が戦争にまけたこと 戦争に参戦したこと すべて否定をすることからしか戦後がなかった
今の繁栄もひずみも過去にさかのぼらなければならないが新しい道を模索するには
過去の歴史を受け入れるしかないのかもしれない 肯定も否定もなしとして

独自の文化をつくりあげ鎖国政策をとってきた江戸文化 
そこから学べることはまだまだありすぎるほどある
自分を否定することからは始まらないのだから
国も同じかもしれないのである

戦後 経済の繁栄に全国民が総力をあげその象徴としてつくりあげた東京オリンピック
なにが成功なのか いまはわからなくなってくる
首都高速は確かにべんりだが  日本橋の上にそのまま首都高をつくったことが
戦後の日本の象徴でもあると私は感じるのだ

これからの日本を作るために シンボルを大事にしたいのです
人がひとつになるには なにかひとつ共有していることが大事
富士山や日本橋や東京にもみんながあ~ここは日本だなと感じられるシンボルが必要
それは人工物の東京タワーではなく連綿と先祖がつくりあげてきた文化を継承するものだ

否定も肯定も必要がないが、否定よりはややどちらも分析した上で肯定していきたいのが持論
そこからしか新しい道がないからだ


いつの時代も女性は女性なのである

あの頃と通じてみたい自分がいる

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WIkipedia より
日本橋(橋梁)

『東海道五十三次之内 日本橋』
歌川広重筆。明七ツ立[1]で日本橋を渡る大名行列と、橋の袂の高札場に河岸で仕入れた魚を持ち込む魚屋の様子が描かれている。
『木曾街道 続ノ壱 日本橋 雪之曙』
渓斎英泉筆
昭和21年(1946年)の東京・日本橋(写真)
日本橋付近の航空写真
橋は首都高速道路の真下にあり、空からは見えない。上下に延びるのが中央通り、交差する左右の通りが首都高都心環状線。以北が国道4、6、14、17号、以南が1、15、20号である。画面下の交差点は日本橋交差点。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。
麒麟と獅子のブロンズ像
(架橋当時の欄干の彫刻)
渡辺長男作橋としての日本橋は、東京都中央区の日本橋川の上に架かる橋。

1603年(慶長8年)- 江戸幕府を開いた徳川家康の全国道路網整備計画に際して架けられ、初代は木造の橋だった。
1604年(慶長9年)- 五街道の基点とされ、江戸の中で最も賑わっていた。浮世絵による風景画に描かれる日本橋には背後に富士山が描かれることが多く、江戸の象徴とも言えた。
明治後期 - 東京遷都30年を記念して日本橋の両端に杉細工の「緑門」と呼ばれる鳥居が建てられていた(1898年〈明治31年〉4月12日の落成、鳥居の失われた時期は不明)。
1911年(明治44年)- 現在の日本橋は、この時期に架けられた石造(花崗岩製)の二連アーチ橋で、石造にまるまでの間は、度々火事で消失していた。
1963年(昭和38年)- 昭和高度経済成長期、東京オリンピックを控えたこの時期、橋の真上に首都高速道路が建設されるに至って、橋からは空を見上げる事さえできなくなり、人の賑わいもなくなった。これにより、江戸期の面影は完全に見ることはできない。
1999年(平成11年)- 日本橋は国の重要文化財に指定されている。近年では、日本橋付近の住民の要望で橋の上にある首都高速道路を地下へ移転し、景観を復活させる構想が立てられている。小泉純一郎元総理もそれを後押しする発言をしているが、予算が5000億円といった莫大な資金になるため石原慎太郎都知事は反対している。都市景観の問題や行政の問題対応能力と絡めて韓国・ソウルの清渓高架道路の撤去計画と対比されることもある。韓国の場合は、一般道であるが、老朽化が進んでいたこともある。撤去そのものが計画されていたことに留意する必要がある。
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by kevala | 2009-01-19 01:46 | できごと